※1

侍真とは、伝教大師・最澄の真影[しんえい/実物そのままの姿)をお守りする僧のこと。今も最澄が生きているかのごとく「真影に侍(はべ)る」というところから侍真僧(じしんそう)といわれます。

※2

大乗とは、「悉有仏性[しつうぶっしょう/すべての生命は仏となる本性をもっている]を基本とし「忘己利他[ぼうこりた/己をわすれて他を利する]」という菩薩道を説く教えです。

※3

戒壇院とは、僧尼に戒律を授けるために設ける戒壇のある建物をいいます。日本では鑑真が754年に東大寺大仏殿前に設置したのがはじまりで、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の3つの戒壇のいずれかで受戒することになっていました。これらは小乗戒の受戒が中心でした。

※4

贈り名。生前の事績への評価に基づく名のこと。

歴史1
比叡山に天台宗創建

最澄、比叡山に育つ

 神山としておそれ敬われてきた比叡山は、古代から修行に適したお山ともされていました。
 日本最古の漢詩集『懐風藻[かいふうそう]』(751)には麻田連陽春[あさだのむらじやす]の詩に以下のようなくだりがあり、伝教大師・最澄の入山以前の様子が伺えます。
   近江は惟[こ]れ帝里[ていり]
   裨叡[ひえ]は寔[まこと]に神山[しんざん]
   山静けくして俗塵寂[しづ]み
   谷間[しず]かにして真理専[もっぱ]らにあり 云々
 近江守・藤原仲麻呂の父・藤原武智麻呂が神山「裨叡(比叡山)」に宝殿を建て、ひとり修行にいそしんでいたことを記しています。
 最澄の父・三津首浄足[みつのおびときよたり=百枝]もまた、男子が授かることを願い、比叡山麓八王子山の西脇に草庵(のちの神宮禅院)を結び、一人修行をしました。
 こうして命を授かった最澄自身も、比叡入山前に父と同じ場所で悔過[けか](=仏に自分の罪を懺悔すること)の修行をおこないました。このとき香炉の中より一粒の仏舎利[ぶっしゃり]を見いだしたと伝えています(『叡山大師伝』より)。
 最澄はまさに比叡山によって育まれた神の子でもあったのです。

山学山修さんがくさんしゅうの道場

 時は延暦7年(788)、比叡入山の後3年を経ていた最澄(766~822)は東塔北谷に一乗止観院(後の根本中堂)を建立(この年が天台仏教の創始とされています)。みずから刻んだ薬師如来像を本尊として安置し、御前に「不滅の法灯」を灯しました。
 そこには奈良で具足戒[ぐそくかい]を授かりながらも南都仏教に背を向け、ひとり山に籠って多くの経典を読みあさり、天台の教えを追究する青年最澄の姿がありました。
 そのひたむきさに感銘を受けた桓武天皇によって、最澄の入唐求法[にっとうぐほう](=当時の中国に留学して仏法を学ぶこと)の願いは叶えられ、比叡山は朝廷から日本の国を鎮[しず]め護[まも]る寺として大きな期待を受けます。
 中国からたくさんの天台典籍と密教を持ち帰った最澄は、鎮護国家[ちんごこっか]のためには、国宝となる人材「菩薩僧[ぼさつそう]」を育成しなければならないとして、『山家学生式[さんげがくしょうしき]』などを書きあらわし、教育理念と修学規制を定めました。
 「12年間は山を降りず、止観業[しかんごう](法華)と遮那業[しゃなごう](密教)の両部門を修学せよ」という規定は、長い間比叡山の憲法となりました。
 今に継承されているのは、伝教大師の祖廟「浄土院」にて侍真[じしん※1]制度のもとに行われる「十二年籠山行」や「千日回峰行」、さらに比叡山の住職になるための「三年籠山行」などの行です。

日本天台宗の樹立

 弘仁13年(822)最澄は、比叡山中堂院で56歳の生涯を閉じました。
 それまで日本には小乗戒壇しかなく、菩薩僧の戒を授ける大乗※2戒壇の設立を悲願していた最澄に、朝廷より設立の許しが下ったのは、その死の七日後の6月11日のことでした。翌年の弘仁14年(823)2月には、比叡山寺は桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜り、以来「延暦寺」と称されるようになりました。また同年4月に最初の受戒を実施し、その5年後には大乗戒壇院※3が建立されました。これにより多くの人材を比叡山に集めることになりました。
 貞観8年(866)には、清和天皇より伝教大師[でんぎょうだいし]の諡号[しごう※4]が贈られました。日本で初めての大師号となります。