延暦寺の政所里坊

 近世、比叡山焼討ち以降、里坊の増加にともなって総里坊(各塔の行政機能)が坂本に置かれるようになりました。山坊は山学山修の場としての機能を担い、里坊との役割分担は明確になっていきました。

江戸時代、ここを中心に復興が加速
~滋賀院門跡~(有料公開)

 古くは慈鎮和尚・慈円(1155〜1225)の里坊旧跡に、慈眼大師・天海が後陽成上皇より北白川の法勝寺の高閣を賜って元和元年(1615)に移築再建したものです。江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇ります。境内には内仏殿、宸殿、書院、庫裏等が建ち並び、客殿には狩野派による障壁画があり、宸殿西には小堀遠州の庭園があります。坂本の町並みはここを中心に中世の道や社をそのままに復興したと考えられています。

明治初年まで三塔の行政機関が坂本に置かれた
~止観院~(通常非公開)

 近世の比叡山三塔は分治され、各々の行政を担う総里坊は坂本に置かれるようになりました。東塔の総里坊は止観院出納所[しのじょ]に、西塔は生源寺に置かれ、両者の責任者を「執行代」と称しました。一方、横川の総里坊は弘法寺[ぐぼうじ]に置かれ、責任者を「別当代」と呼んだことから、弘法寺門前には横川別当代と刻んだ石碑があります。