穴太衆のふるさと

 里坊のまちを歩くと、穴太衆積みの石垣が美しいまちの景観をつくりだしていることに気づきます。
 「石の声を聴き、石に従う」といい、自然石を巧みに組み合わせて石垣をつくる穴太衆積みの技法もまた、比叡山延暦寺や坂本の歴史とともに育まれました。そしてそれを生み出した穴太衆のルーツは古代にあります。
 坂本の隣町・穴太[あのう]一帯には、6~7世紀前半のオンドル遺構をはじめ、その西方の山麓一帯にある横穴式石室墳からなる穴太古墳群が遺されています。これらは、花崗岩を使用した野面石(のづらいし= 山野に転がっている自然石のこと)の乱積み構架法からなるもので、その構造は朝鮮半島の高句麗や百済に見られるとともに、石の配置の方法が穴太衆積みによく似ているといわれます。こうしたことから、穴太の地に集中する特異な横穴石室の造成は、朝鮮半島から伝来した技術によるものであり、後世に穴太衆と呼ばれるようになる技術者集団によって作られたと考えられています。
 穴太に多く見られる石積みの技法は、比叡山延暦寺や坂本の歴史とともにさらに高度なものに磨かれていきます。
 穴太の技術者集団は、同じ渡来氏族の縁から、伝教大師・最澄が比叡山に延暦寺を開創するにあたり、比叡山上の堂塔建設に力を貸したと考えられています。彼らは最澄とともに比叡山に登り、開墾のための土木工事を請け負い、比叡山の各種堂塔伽藍の造成、基礎石垣、登山道の土留石垣、水田整備に伴う石垣畦、井戸の構築などを通じて、石積みに特化した石工集団を形成していったのではないかと考えられています。

城壁に用いられた技術

 時は上り戦国時代になると、穴太衆は歴史の表舞台に立つことになります。
 織田信長の比叡山焼討ち後の処理を任ぜられた丹羽長秀[にわながひで]が、燃え尽きた山坊の後始末をしていたとき、石垣を崩そうとしてまったく崩せず、その石垣の堅牢さに驚いたことを信長に報告したと伝えます。このとき信長は比叡山に使われていた石垣が堅固なことを知り、天正4年(1576)安土城築城に際して穴太より石工を呼び寄せ、高くて丈夫な城壁づくりに挑みました。
 穴太衆の技術は、安土城の城壁普請という実績によって、諸国の築城の際に求められるようになり、穴太衆の名前は全国に轟き渡るようになりました。
 近世の坂本の復興が本格化すると、里坊建造計画にともない穴太衆積みの石垣は坂本の穏やかな傾斜地の土地造成に活用されました。これらの石垣は、築城で培った石積み技術の粋を集めたもので、現在も滋賀院門跡や生源寺、律院など随所に残り、その優れた技を観察できます。

美しく積むほどに堅牢

 明治以降は、近代化とともに需要が少なくなり次第に石工も減少してきました。しかし20世紀に入ると、史蹟や文化財修復工事で穴太衆積みの技術が再認識されるようになり、平成15年(2003)には、新名神高速道路の甲南トンネルの本線盛土と東海自然歩道の間の擁壁構造として穴太衆積みは採用されました。採用にあたってはコンクリートブロックと同じ条件で穴太衆積みを施工し、250トンの荷重をかける実験が行われ、コンクリートの1.5から2倍の耐荷力が実証されました。その構造が科学的に注目され、地震に強い工法として再び評価されています。
 今は近江に唯一、穴太衆石匠・第14代目粟田純司さんと第15代目粟田純徳さんが伝承するこの穴太衆積みの技術は、美しく積むほどに堅牢なことも評価され、現代の建造物との融合が期待されているところです。