里坊は座主より賜る

 坂本の歴史的街並み、その景観を特徴付ける建物として「里坊」があります。国の伝統的建造物群保存地区に指定され、名勝としても延暦寺里坊庭園十ヶ所が国の指定となっています。里坊が坂本にとっていかに特徴的な存在であるかが、こうしたことからも理解できます。
 では「里坊」とはどのような施設なのでしょうか。まず「里坊」の対となる言葉は「山坊」です。延暦寺は、三塔十六谷と呼ばれるように、大きくは東塔・西塔・横川の三塔に区分され、その中に谷と呼ばれる十六のエリアが存在します。この谷の中に院や坊の堂舎があり、これが山上の坊、つまり「山坊」と呼ばれました。僧侶たちが仏道修行する場が、こうした山坊になります。これに対して里に存在する坊が里坊です。「山坊」がまずあり、対となって山麓に「里坊」が造られることになります。ただ、山坊が廃れ、里坊のみが残る例も多く見られます。
 「里坊」とは一般に延暦寺の僧侶が里に設けた院や坊のことを指しますが、その機能は歴史とともに変化していったようです。
 往時の比叡山の修行は「論湿寒貧[ろんしつかんぴん]」といわれたように、厳しい自然との闘いでもありました。その厳しさに堪えられなくなった老僧や病弱の僧徒が隠居保養するため、天台座主から賜ったのが里坊だと言われています。平安時代の高僧である良源(元三大師)も晩年は「和尚たちまち風痺[ふうひ]を患い、嶺風を避けんがために東坂本の弘法寺に退下せり。」(『慈慧大僧正伝』)とあるように里に居を移しています。また、良源が初めて山に登られたとき休息されたと伝える求法寺走井堂(慈恵大師堂)は、天台座主第四世安恵の里坊が起源といわれています。このほか慈円(慈鎮和尚)の里坊であった小島坊は、後に滋賀院が建立された真葛原にあったと伝えられています。このように高僧たちの里坊は、早くから坂本に建てられていたようですが、それぞれの里坊に歴史があり、その成立や機能も一律ではなかったと考えられます。

現在の里坊の街並みは焼討ち以降のもの

 現在の里坊は、江戸時代になって復興したものです。織田信長の比叡山焼討ちによって灰燼と帰した坂本は、延暦寺や日吉社の復興とともに町も復興させていきます。焼き討ち以前の街並みを踏襲しながら復興していったようですが、延暦寺復興に尽力した天海(慈眼大師)によって建立された滋賀院門跡や東照宮、慈眼堂などがある周辺は大きく変貌した部分です。中世の街並みを伝える詳細な記録は残されていないため、近世の街並みがどれだけ以前の姿を反映しているかは不明ですが、中世の記録に見える道の名称や町名は、現在のそれに通じるものが多く見られます。

信仰をささえる里坊のまち

 それでは、近世坂本の街並みを見ていきましょう。坂本の中心に位置するのは日吉馬場にある中ノ鳥居(中神門)です。この中ノ鳥居の南北軸の西側に里坊や日吉社にかかわる社司や宮仕の住まいが集中していました。もちろんそれより東にも里坊が建っていますから、厳密なものではありませんが、概ねその傾向にあるといえます。ですから山門公人をはじめ一般の人々が住む空間が、中ノ鳥居の南北軸から東側に広がることになり、その東端が、大神門社、つまり大鳥居の付近といえるでしょう。つまり中ノ鳥居から西側は、宗教者が主に住まう空間、東が在地人の住まう空間といえ、両者が一体となって延暦寺や日吉社を支えていたといえます。
 近世の坂本には、多い時で80ヶ所を越える里坊が存在していました。各里坊は三塔十六谷に所属しており、その中に総里坊と呼ばれる寺が位置づけられていました。東塔であれば止観院、西塔では生源寺、横川では弘法寺がその役割を担っていました。とくに止観院は、坂本全体の行政を司る役割もあわせもっていました。近世の坂本・下阪本は、延暦寺領でしたので、その年貢収納や行政的な役割を止観院は持っており、罪を裁くお白州もあったと伝えます。
 坂本の美しい景観をつくりだしている里坊の多くは、穴太衆積みの端正な石垣によって造成され、大宮川や藤ノ木川など山裾を流れる山清水を引き入れた築山池泉の美しい庭園と、客殿と庫裏からなる建物によって構成されています。寺院というより老後の暮らしを営む住居とされていましたから小さな内仏間があり、これに庫裏がつながるというような構造になっていたようです。
 明治になって神仏分離令が発令され、全国に廃仏毀釈運動が波及し、坂本もその例に漏れず影響を受けました。山門領の解体など数々の苦難を経験し、廃絶された里坊もありました。近年は僧侶にも妻帯が許され、家庭生活の場としての一面を持ちつつ受け継がれています。現代になって里坊の価値が見直され、再建保存されるようになり、支院(上記の求法寺、生源寺、弘法寺、慈眼堂、滋賀院門跡など)を含めて里坊は54ヶ寺あります。
 一部の里坊および里坊庭園は、特別公開時に拝観できます。